山田拓民さん

 「この頃、あの人の顔を見ないなあ、って思うことがあるでしょ。次に名前を聞くのは『入院しているらしいよ』、その次は『亡くなった』って。ここ何年か、本当にそんなことが増えたね」▲今なら“肌感覚で”とでも言うのだろうか、被爆者たちの「老い」をそんな表現で語ってもらったのは2004年の秋、被爆60年の前の年だった。「事務局長」の肩書がそんな性格を育てたか、それとも最初から得難い適材だったか。周囲への目配りがこの人らしい▲「国家補償を言い出すと、被爆者はまだ何か欲しいのか-って言われるかもしれない。けれどそうじゃない」と教えてもらったのは次の年の夏▲「戦争被害を国の責任で賠償させることを諦めてしまったら戦争が国家につきまとう行為だと認めてしまうことになる。本当に二度と戦争をしない国にするために被爆者は先頭に立つんです」▲取材の記者の不勉強にも、繰り返しの質問にも、怒った顔を見た記憶がない。長崎原爆被災者協議会(長崎被災協)の事務局長を長く務めた被爆者の山田拓民さんが亡くなった▲記事にはこんな言葉もあった。「唯一の被爆国と言うなら、もっと真剣に核兵器廃絶に取り組んでほしい」。同じ場所から一歩も踏み出せない政府や国会にはどんな視線を向けていたろうか。(智)


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