23年ぶりの春 長崎日大センバツ出場<中> 『継承』 「やりがいしかない」 チームの指揮はOBへ

選手時代は甲子園に4度出場した部長の山内。先輩でもある監督の平山らとともに選手を指導する=諫早市、長崎日大学園野球場

 1992年秋から長崎日大を春夏計8度甲子園に導いた監督の的野和男が2006年に退任し、学校は新たな指揮官を招いた。1999年春の選抜で沖縄尚学を率いて沖縄県初の日本一に輝いた金城孝夫だ。就任直後の2007年夏の県大会、県内外で台頭していた清峰の3連覇を阻むと、甲子園でも快進撃。優勝校の佐賀北に準決勝で敗れたが、県勢31年ぶり、チーム初の4強に入った。

  ■遠のいた甲子園
 09年夏の県大会では、その春に全国制覇を果たした清峰を再び撃破。現在プロ野球の広島で活躍する大瀬良大地らを擁して甲子園に臨み、10年夏も連続で切符を手にした。だが、その後は勝てなかった。14年夏の県大会は実に20年ぶりの初戦敗退。16年秋に県の頂点へ返り咲いたが、それ以外は目立った結果を残せず、大舞台は遠のいた。
 「昔に比べて選手をしかることに怖さはある。ここぞというときに植え付けたいものがあるけれど、どんな影響を与えるのか…」「子どもに“自己犠牲”でなく自己保身を教える親も多い。チームをつくる上で以前と違う大きな変化。それを分かりながら、自分の我というか、方針は変えられなかった」-。18年夏を最後に64歳で退いた金城はそう語っていた。

  ■託されたバトン
 結果として苦しい時期も長かったが「金城さんは長崎のレベルアップに大きく貢献してくれた」と評する県内指導者は少なくない。そして、的野、金城の体制で栄光も挫折も味わってきたチームのバトンは、1993年の甲子園初出場から25年後、そこで育ってきたOBたちへと託された。
 金城退任後に監督となった現在42歳の平山清一郎は、的野の下でプレーし、大学卒業後の2002年から副部長や部長として恩師や金城に仕えた。16年間、名将2人に学び、縁の下で支えた、周囲の誰もが認める「苦労人」だ。さらに昨春、頼りになる部長も加入。00年夏の県V3メンバーで、1年時から春夏計4度甲子園に出場した山内徹也が母校へ戻ってきた。
 東京で社会人野球も経験し、帰崎後は鎮西学院の部長として経験を積んだ山内の存在は、3学年先輩の平山も心強く感じる。高校時代に同じ環境で、ともに主将兼捕手としてチームを引っ張った2人が連携を深めるのに時間はかからなかった。同じく卒業生で金城、平山の指導を受けて10年夏の甲子園に出た鹿田浩太郎ら他のスタッフを含めて若い陣容となった。

  ■“ファイター”に
 「母校で指導できる人は一握りだから、やりがいしかない」。懐かしいユニホームに久々に袖を通した山内は感謝を胸に責任感を強調する。「もっと感慨深いのかなと思ったら、それは赴任した瞬間くらいだった。やらないといけないと思うことばかり」。試合中、ベンチで選手に負けじと気迫を前面に出す山内は、自身の経験も踏まえ、こう続けた。
 「僕らの時代は監督たちに怒られても、勝手に跳ね返っていった。個性派ぞろいだった中でも、自分たちがやってやるんだ、勝ちたいんだという炎を、みんなが消さないようにした。だから、今の子たちにも“ファイター”になってほしい」
 試合を見に来る学校関係者らの姿も増え、期待がうかがえる。1999年に投打の中心として春夏連続甲子園へ出場し、平山、山内どちらとも同じ時間を過ごした三菱重工長崎元投手の山中俊介の言葉は気持ちがこもっていた。「強かった当時を知っているからこそ、平山さんや山内が負けたら本当に悔しくなる」


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