戦国末期「東空閑城」跡 土塁、新たに発見 島原市教委 有馬氏家臣の居城

東空閑城跡で、地中から新たに発見された土塁を説明する市職員(手前)ら=島原市有明町大三東

 長崎県島原市教育委員会は、戦国時代末期ごろ築かれたとされる山城「東空閑(ひがしこが)城」跡(同市有明町大三東)で、敵の侵入を防ぐための土塁を新たに発見した。島原半島北方の守りを固めていた同城の防御構造や、当時の情勢をうかがい知ることができる貴重な遺構という。
 市教委などによると、東空閑城は1500年代、島原半島を支配していた有馬氏に仕える家臣、古賀越後の居城。天正6(1578)年、敵対する佐賀の龍造寺隆信の攻撃を受け、落城したと伝えられている。
 有明海を臨む台地に構築され、海に延びる舌状の地形を掘削した空堀(市指定史跡)も設けられていた。こうした防御施設として空堀を構築する工夫は、同半島内のほかの中世城郭でもみられる特徴という。
 今回、地中から発見された土塁は、戦国時代の城の中の区画、曲輪(くるわ)の端に設けられた遺構。平たん部の土を盛って造成した「かき上げ土塁」とみられる。地元自治会の植樹計画に伴う調査で4月19日に発見され、発掘調査が進められていた。
 市教委が約1カ月かけて市有地(397平方メートル)の約27平方メートルを調べた。土塁の高さは1メートル程度あったと推定され、東西と南北の2方向で遺構を確認。中国産貿易陶磁器の破片などの遺物も出土した。
 今回を含めて見つかった土塁や空堀の遺構は、有馬氏と龍造寺氏が長年にわたり対立する中、侵攻してくる方角の守りを強固にするための防御施設とされる。両氏が有明海の制海権を巡り、同半島で争いを繰り広げていたことを示す証拠の一つという。
 市教委社会教育課の吉岡慈文学芸員(33)は「土塁はなかなか残っていない珍しい遺構。中世の山城のあり方がうかがえる発見なので、適切に保存を図りたい」と話す。


© 株式会社長崎新聞社