「あそこの大学に行け」「就職しろ」の日本を飛び出して24年。川合慶太郎がオランダで築き上げた“Jドリーム”の存在意義【現地発】

「アーリー・スカンスはまさに『日体大のハンス・オフト』でした」と川合慶太郎(48歳)は振り返る。

1992年から93年まで、日本代表を指揮したオフトは「アイコンタクト」「トライアングル」「スリーライン」「スモール・フィールド(コンパクト)」といった平易な言葉を用いて、日本人のサッカー理解度を高めた。

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スカンスも、それまでの「頑張れ、走れ」という日本体育大学のサッカーをゼロから作り変えて「ボールを繋ぐサッカー」に変えた。4-3-3システムなら、最初は各ラインの約束事を決めることからスタートした。

「本当に目から鱗が落ちるようなことばかりでした。当時は『ボールを持っている選手が次のプレーを決める』と信じていました。しかし、アーリーは『受け手がボールを呼ぶことで次のプレーを決めるんだ』と教えてくれたんです」

つまり「コミュニケーション」だった。

大学3年から4年にかけて、スカンスの身の回りを世話し、「オランダには芝生のピッチがたくさんあって、放課後は子どもたちがそこでサッカーするんだ」などとサッカー事情や国のこととかを聞き続けた川合は卒業した98年、オランダに飛んで1年暮らした。

そこではGVVVというクラブでプレーしたり、子どもたちを指導する手伝いをしたりした。社会人や学生で構成されるアマチュアクラブということもあり、練習は週に2~3回だった。・

日本では「あそこの大学に行け」「就職しろ」「早く結婚しろ」などと慌ただしく急かされた。しかし、オランダに来ると「たかだか22歳、23歳で何言っているの⁉ 急いで将来のことを考えなくてもいい。お前が決めたことをやればいい。そのことを周りも別に何も言わないし尊重する」と諭された。

「サッカー云々でなく、オランダにずっと住みたいと思った。ここは本当に人生がスローダウンしていいんだと感じました」

サッカーも勉強も、子どもたちが自分のレベルに合わせていることも、川合にとっては新鮮だった。小学生の頃の彼は体力がなく、そのため授業を聞く集中力が持たず、勉強も運動も苦手だった。しかし、オランダでは子どもが留年するのは当たり前。サッカーも身体の小さな子は、必要であれば下のカテゴリーでプレーさせる。

「オランダに来てからから分かったのは、僕は成長期が遅かっただけ。中学に上がったら体力が付いて、急に勉強もスポーツもできるようになった。しかし、小学生の時の僕は本当に辛かった。オランダでは勉強もスポーツも、自分に合ったところで真剣勝負できる。身体が大きな子にとっても、小さな子にとっても、同じ年齢のチームでプレーしたらつまらないですよね。将来産まれてくる子どもに『自分と同じ思いをさせたくない』と思って、オランダに住むことを決めました」

一度、日本に戻ってビザを準備して、川合は1999年12月から本格的にオランダに住み始めた。すると「日本人学校の運動会に行っても面白くない。子どもたちが走って転ぶことすらない」という話を聞いた。当時の日本人の子たちは運動する機会がまったくなく、足が絡まって転がるほど全力で走ることができなかったのだという。放課後も子どもたちはとにかく怪我や病気をさせないと守られていたので、外で遊ぶこともできなかった。

「子どもたちに運動する機会を作ってほしい」との強い要望があり、大使館や日本人学校からもサポートを受け、2001年、小学校低学年向けサッカークラブ、Jドリームが発足した。

最初から屋外で活動するのはハードルが高すぎて、体育館で活動することから始めた。

「まったく運動のできない子どもたちにボールをいきなり与えると、ボールが扱えないから運動の負荷が減ってしまう。だから鬼ごっこ、でんぐり返し、側転とか、ともかく運動量を重視した。だけど彼らは元々運動神経が悪かったわけではなく、運動する機会がなかっただけだった。子どもは覚えるのが早いからサッカーもすぐに覚えた」

そのうち高学年の子どもたちも「自分もサッカーしたい」と言い出し、メンバーが40人くらいになった。体育館では手狭になったため、川合は自身がプレーしていたRKAVICというクラブに頼んで、日曜日の朝をJドリームのトレーニングに使えるようにした。

「子どもたちが運動できるようになってくると、やっぱり試合をしてオランダ人と交流させてあげたかった」

今度は父親たちが「我々もサッカーをしたい」と言いだした。こうして06年に発足したのがU-50チーム(現在は“ONEチーム”)だ。オランダらしく、ポジションをしっかり取りながらインサイドキックでしっかりパスを繋ぐサッカーは、それまでプレーしたことのなかった人にとっても馴染みやすいものだった。

また「なんで、あそこでパスを出さないんだ!」などと叱り飛ばしていたお父さんたちも、自身がプレーすることによってその難しさ、その深さを知り、家に帰ってから親子でキチンとしたサッカー談義をするようになった。U-50チームのお父さんたちは、週末の子どもたちのトレーニングのサポートコーチとしても活躍している。

2010年に会社を辞めたことで、川合はJドリームの活動一本に絞った。そしてレイモンド・フェルハイエンの「ワールド・フットボールアカデミー(現在は『フットボール・コーチ・エボリューション』)」の日本担当としてセミナーを開いたり、日本のチームのオランダ遠征を手伝ったりしている。

「当時から私は、子どもたちが試合だけするとか、大会に参加する遠征に疑問を感じています。だからカレン・ロバートさんが運営しているローヴァーズのように、知り合いから頼まれたときだけ、お手伝いしています。子どもたちや、コーチたちのサッカー人生は遠征後も続くわけです。そこに私も貢献できるようお手伝いさせてもらっています。

ローヴァーズには、最初に試合をしてもらってコーチと一緒に分析し、その後のトレーニング計画作りを話し合い、最終日前に試合をして帰国後につなげるための評価トレーニングをして終わり――という流れにしています」

ローヴァーズのアムステルダム観光では「カレンさん、たっての頼みで1時間だけ、子どもたちの自由時間を設けているんです」(川合)という。みんなでヨハン・クライフ・アレーナに寄ってから、アムステルダムの中心街に行ってひと通り見どころを紹介して、それから子どもたちが3、4人のグループに分かれて1時間自由に動く。困ったときにはダム広場に戻ってくる約束だ。

“アムステルダムの自由行動1時間”への思いをカレンはこう語る。

「楽しむことはもちろんですが、『不便を経験してほしい』ということ、『外から日本を見てほしい』ということ、『夢を叶えるためには、サッカーがうまいだけではダメ』ということをこの1時間で理解してほしいと思っています」

24歳でオランダに住み始めた川合は今48歳。人生の半分をオランダで過ごしている。

「そこでちょっと思うことがあった。僕みたいな思いをさせたくなかったから、2人の息子をオランダで育てたかった。去年、次男が成人したので子育てが終わり、ここで夢がひとつ叶った。こういう仕事をしているからサッカー選手と知り合う機会が多い。息子たちが一番難しい時期に本田圭佑さんや吉田麻也さんがいろいろ言ってくれた。彼らは塾などには一切行かずサッカーばっかりしていたが、それでもオランダでは優秀と言われる大学に進んだ。僕はサッカー、母はピアノと自分たちのことで精一杯だったけど、子どもたちはオランダという国とオランダの学校とサッカー選手たちに育ててもらった。この先、どこでも生活していけるでしょう」

Jドリームが発足してから23年。かつての「子たち」のなかには親になった者もいる。日本に帰った子たちも、川合を頼って会いに来てくれる。

「彼らのなかから駐在員としてオランダに帰ってくる子が出てくるのも時間の問題でしょう」

コロナの後、オランダに住んでいる日本人の子どもたちはまた塾や習い事、土曜日の補習校と時間に追われるようになってしまった。そんな子どもたちをもう一度、笑顔が溢れる元気にするのが、これからの川合の夢だ。

在オランダ日本人の子どもたちの運動不足解消を目的に、2001年に発足したJドリームは、サッカーをするあまりの環境の良さに父親たちの「私たちもサッカーをしたい」という声の高まりによって、06年にU-50チーム(現在のONEチーム)が生まれた。30代、40代がメインだが、なかには20代の若い選手、60代のオーバーエイジもいる。

アムステルフェーン市のアマチュアクラブ、RKAVICの施設で練習を終えると、彼らはクラブハウスでビールを飲みながら歓談する。トレーニングのこと、今度の試合のこと、オランダサッカーのこと、子どもの学校のこと、家族旅行のこと――。話題は尽きない。

U-50チーム立ち上げ時、彼らから「現地のスタッフが仕事をしないから、私がたくさん働かないといけない。彼らとのコミュニケーションがうまく取れないんです」という愚痴がこぼれた。Jドリームの代表を務める川合は当時、現地採用のスタッフとして日系企業で働いていた。

「私は現地のスタッフとコミュニケーションを取りながら働いています。駐在員の方が英語も仕事もできるはずなのに、それはなぜでしょう?」

すると、「川合さんはサッカーができるからでは?」という話が出た。GVVVやRKAVICというオランダのアマチュアクラブでプレーしていた川合は、現地の人たちと上手くコミュニケーションを取ることができたのだ。

「分かりました。Jドリームで在オランダ日系企業対抗サッカー大会を作りますから、皆さん、チームのキャプテンとして同僚の人たちに『こういう大会があるから、会社のみんなで参加しようぜ』と呼びかけてください」

07年、第1回Jドリームカップが成功裡に終わると「サッカーを通じて、我々駐在員と、現地スタッフのコミュニケーションがスムーズになりました」という嬉しい言葉が聞こえてきた。

「Jドリームカップの第5回大会(2012年)は、記念大会としてデカいイベントをしよう」と川合は、オランダ代表OBチームを招いてエキシビションマッチを催すことを考え、当時のRKAVICチェアマンと共にエドワード・デ・クー(日蘭サッカーコーディネーター)の力も借りてオランダの関係者と根回ししていた。ところが2011年3月11日、東日本大震災が起こった。

オランダ代表OBマッチで話を進めていた川合たちは、「来年、Jドリームカップの5周年とか言っている暇はない。こういうのはスピードが大事。今やるぞ」と話し合い、ペーター・ボス(元ジェフ千葉)、アルフレッド・ネイハイス(元浦和レッズ)、テド・ファン・レーウヴェン(オランダ複数クラブのTDとして日本人選手を獲得した)ら日本サッカーにルーツのある方々の賛同、協力を得て、チャリティーマッチを4月13日、オランダで開催することにした。

場所はアムステルダム・アレーナ(現ヨハン・クライフ・アレーナ)。チームはアヤックス。しかし、日本から招待するチームがなかなか決まらなかった。Jリーグのクラブもチャリティーマッチに行きたかったものの「日本が大変で自粛ムードのなか、今、オランダに行ったら叩かれる」と恐れていた。

「対戦チームを探すのが一番大変だったんです。断られてばかりのなか、清水エスパルスだけ、幹部の方が『オランダの人たちが日本のために働いて寄付をしてくれるのに、なんで行かないんだ。うちは行くぞ』と言って、来るのを決めてくれました」

本当はアヤックス対清水エスパルスの試合だけだった。しかし、オランダサイドがより積極的に動いてくれて、前半はコンサート、後半はサッカーという2本立てのイベントになった。コンサートに参加してくれたミュージシャンの一つが、オランダではスーパースターのデ・トッパーズだった。

「オランダでは有名な歌手たちがテレビで一曲歌うと、『寄付しろよ』と言い続けてくれたんです。だから、音楽経由の寄付もスゴかったんですよ」

アヤックス対清水エスパルスは3万8000枚のチケットが売れ、7億円以上の募金が集まり、68か国で中継された。

「これを3週間でやり遂げたんです。スピードがあったからこそ募金があれだけ集まったんだと思います」

オランダ人のチャリティーへの熱意は有名だ。あのときもアムステルダム・アレーナに支払ったのは警備員や売店の店員の人件費、光熱費だけ。移動、宿泊なども多くの企業が負担してくれた。Jドリームの子どもたちも、ボールボーイやエスコートキッズで試合をサポートした。

今年もJドリームカップは9月1日、23社24チームが参加してRKAVICで開催される。 Jドリームカップは日本大使館、アムステルフェーン市、多くの企業がスポンサードしている。

この大会には裏のテーマもある。それはJドリームカップに関わったメンバーたちが、帰任して日本で再び働くようになっても、オランダのサッカー文化を忘れないで日本サッカーに貢献してほしいということ。その文化とは、企業がサッカーに対して熱心なこと。

「皆さん、日本に戻ったらどのような形でもいいから、会社としてなにかサッカーに関わることができないか、考えて行動してみてください」

川合はU-50チームのメンバーにそう言い続けている。

<文中敬称略>

取材・文●中田 徹

© 日本スポーツ企画出版社