皿うどん探訪記(上)山海の幸 中華と融合 今も生きる「恩送り」の心

パリパリ細麺(上)ともっちり太麺。人気投票では細麺派が約6割と多数を占めた

 長崎県の郷土料理、皿うどん。長崎新聞の情報窓口「ナガサキポスト」のLINE(ライン)で昨年末、細麺と太麺の人気投票を実施。約6割の人が細麺派という結果になった。調査を機に関係者に話を聞くと、皿うどんには〝長崎のエッセンス〟が詰まっていることが浮かび上がってきた。皿うどんから見える長崎の魅力を探求する。

 
 ちゃんぽん発祥の店として知られる長崎市松が枝町の中華料理店「四海樓」。一面の窓ガラスから山と海を見渡しながら、皿うどんを注文した。しばらくすると、煮詰まったスープに野菜や魚介類がなじんだ、もちもちのちゃんぽん麺が皿にのって出てきた。いわゆる太麺の皿うどんだ。
 細麺と太麺はどちらが先に生まれたか―。答えは太麺だ。1900(明治33)年ごろ、四海樓の創業者、陳平順さんが考案したとされる。
 平順さんのひ孫で四海樓4代目の陳優継さん(56)によると、ちゃんぽんの生みの親でもある平順さんがちゃんぽんのバリエーションとして生み出した。ルーツは福建料理のスープがない麺料理「炒肉絲麺(チャアニィシィメン)」。当時の日本では麺を深い器で汁とともに食べるのが当たり前で、人々に強い印象を与えた。ちゃんぽんは「支那饂飩(うどん)」と呼ばれていたため、皿にのった「饂飩」で「皿うどん」と呼ぶようになったという。
 太麺の皿うどんが誕生して間もなく、調理工程を簡便化させた派生型の「炒麺」こと細麺が登場。あらかじめ細い麺を油で揚げ、そこにあんをかけるという調理法は、限られた時間でより多くの人に提供することを可能にした。炒麺も平順さんが考案した長崎生まれの麺だ。

陳平順さん(四海樓提供)

 「ちゃんぽんと長崎華僑」(陳優継著、2009年長崎新聞社刊)によると、平順さんは福建省出身。好奇心旺盛な性格で、1892(明治25)年、19歳の時に「一旗揚げよう」と単身で来崎した。敬虔(けいけん)なクリスチャンだったことも長崎に来た理由の一つだった。
 1899(明治32)年に四海樓を開業。貧しい地域で育ち、小さいころからひもじい思いをしてきた平順さんにとって、食への思いは特別だった。
 自分が受けた恩を次の者に送るという「恩送り」の理念を大切にした。外国船が長崎港に入ると岸壁に足を運び、進んで華僑や留学生の身元引受人になった。自身も身元引受人のおかげで長崎に上陸できたからだった。生活が苦しい食べ盛りの彼らを見かねて「安くて栄養があっておなかを満たすおいしい料理を」との思いを形にしたのが、ちゃんぽんと皿うどんだった。
 皿うどんの理念が現代でも生きていることを感じさせるエピソードがある。
 2016年4月の熊本地震後、優継さんが新地中華街のメンバーと被災地に炊き出しに行った時のことだ。1日という限られた時間でより多くの人に食べてもらうために細麺の皿うどんを提供し、1日に千食を振る舞った。東日本大震災の被災地でちゃんぽんを提供した時は3日で千食。食べ物が必要な場でより多くの人に栄養をとってもらおうと生まれた細麺の理念が目に見えた体験だった。
 国際交流の歴史が長い長崎の地で、中華料理の技術と長崎の海と山の幸が「恩送り」の心によって融合し、皿うどんは誕生した。

細麺 調理しやすさも人気

 細麺派が多数となった「ナガサキポスト」の皿うどん人気投票。投票理由から細麺の〝勝因〟を分析すると、味もさながら「皿うどんといえば細麺」という浸透ぶりや調理のしやすさが人気を後押ししていた。
 細麺派が66%を占める長崎市では〝細麺過激派〟の意見が続出。50代男性会社員は「皿うどんは昔からパリパリ麺と決まってる。太麺は皿うどんにあらず」とばっさり。40代女性会社員は「太麺は邪道に思える」、60代男性は「太麺は皿うどんと呼ばない」と回答。
 川棚町の60代女性は「細麺なら皿に盛り付けてレトルトの中華丼をかけて食べられる」、長崎市の40代女性は「やっぱり作りやすさ」と手軽さを挙げた。
 一方、太麺派では上五島町の30代女性公務員が「皿うどんが広がった歴史や文化を考えると太麺」と、「太麺が先」の誕生秘話を重んじた答え。同市の60代男性は「太麺は料理人さんの手間が、食する方にとっては愛情があるように思える」と評価した。
 長崎市の60代女性から「今までは断然細麺だったが、新聞を見て太麺を作ってみたところ素晴らしくおいしい。次からは絶対太麺」との声も寄せられた。

                         (2022年3月11日掲載)


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