水求め息絶えた遺体の山… 原爆投下翌日に爆心地調査 元長崎市職員、林田さんが初証言

高比良館長(手前)に当時の状況を証言する林田さん=長崎市、国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館

 1945年8月の原爆投下翌日に長崎市水道部(当時)職員として爆心地周辺の調査に当たった同市平和町の林田進さん(94)が14日、同市平野町の国立長崎原爆死没者追悼平和祈念館で、同館職員による被爆体験記の聞き取りに自らの体験を語った。
 「公務に携わった人の体験を記録に残したい」との働きかけに77年目で初の証言。高比良則安館長らの質問に答える形で進行した。
 証言によると、林田さんは17歳の時、爆心地から3キロの同市袋町(現在の栄町)にあった水道部庁舎で被爆。強烈な爆風で3メートルほど吹き飛ばされ、割れた窓ガラスで額に切り傷を負った。当時の県庁方面から燃え広がった火災から重要書類を守るため大八車で西山の水源地に運んだという。
 翌朝に指示を受け、浦上地区の被害状況を調査。焼け野原が広がる光景に恐怖を覚えた。爆心直下の下の川では、水を求めて息絶えた遺体の山を目にし、皮膚が垂れ下がった人から「水を」と求められたが助ける手だてがなかったと悲痛な表情を浮かべた。
 その後約1週間、稲佐地区で罹災(りさい)証明書の発行事務に従事。傷口からうじ虫が湧いた男性に十分な治療をすることができなかったと悔いた。
 「軽傷で済んだ自分が体験を語っていいのか」との思いを抱えていたという林田さん。「(爆心地の状況を思い起こすと)一番つらい。再びこういうことをさせてはならない。とにかく核兵器をこの世の中からなくすというのが私の願望」と声を絞り出した。
 同席した長男の慎一郎さん(66)は「下の川の話を今年に入って私に初めて打ち明けた時、体を震わせていた。恐怖や罪の意識を抱え、心の中にしまっていたように感じた」と話した。
 林田さんの証言は館内で数カ月以内に冊子かモニター上で閲覧できる。被爆者・被爆体験者本人で、聞き取りを希望する人は同館へ(電095.814.0055)。


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